私たちは多かれ少なかれ
いろんなことに期待をして生きています。
その”期待”が、
いろんなことの”条件”になってしまうとき。
それはいつか、
自分を苦しめてしまうと思うのです。
それがないと
自分を保っていられない、とか
それがないと
相手とのパートナーシップが築けない、とか。
自分が自分でいるための条件としてあったり、
相手を信頼するための条件としてある。
そうすると、
コントロールしていないといられなくなって、
いつも見張っていないといられなくなってしまいます。
自分のことも相手のことも、目の前の現実も。
その生き方は、
とてもしんどくて、苦しくて、
いつか心や体や関係が、破綻してしまうと思うのです。
少し前の私が、そうだったように。
私には今、
自分がどうなったらいいな、とか
相手がどうなったらいいな、とか
そういう欲がありません。
自分が生きたいように生きる。
相手が生きたいように生きる。
それだけです。
それは、
起きるできごとに、
自然の采配に、
自分自身の真ん中に、
絶対の信頼を持っているから。
私たちの目の前には、
いつも必ず最善のものが用意されていて、
それは、一見マイナスなことのように見えたとしても、
常に最善であると思っています。
そんな視点からものごとを見てみると、
何かをコントロールすることは
不要なことだと思えてくるのです。
目の前の現実を
抗ってどうにかしようと思うより、
そこに、自分の何が映っているのかを見てみると
それは、苦しむために起きているわけじゃないのだと
気づけるときがきっとくる。
なんでなんだろうって考えても
わからないことなんて
いっぱいあって。
どうしようって思っても
どうにもならないことだって
たくさんあって。
でも。
そのままの自分を、
そのままの相手を、
目の前の現実を、
もっと信じていいのだと思う。
相手をどうにかしたいとか
目の前の現実をどうにかしたいとか
どうにかしたいものが外側にあるときは
きっと
自分のなにかをどうにかしたいと思ってる。
だけど本当は、
なにがあっても、なにがなくても
無条件のままに私は私を生きていい。
あなたはあなたを、生きていい。
そんなふうに
期待から自由になって、生きていけたらいいね。
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娘のパパに会いに気仙沼に行ってきました。
今シーズン最後のさくらんぼ狩り(*^-^*)
娘の姿に
私は毎日、たくさんのことを教えてもらっています。
自分を生きよう、って
何度も何度も、教えてくれる人。