3月の末に、3人目を無事出産しました。
桜が満開なのに雪が降っていて
冬と春、陰と陽、終わりと始まり
そういうのが丸っとぜんぶ和になって
統合されたみたいな1日。
十和(とわ)という名前
そのままみたいな自然の中で
この世界に産まれてきた長男。
畳の部屋でごはんを食べたり会話して
日常の一部みたいな穏やかな時間の中で
有るものを無いとしない
無いものを有るとしない
丸ごと全部そのままな
自然なお産をさせてもらえたなぁと思う。
そんなお産を通して私が知ったのは、
それまでの自分が
どれだけ抗って ぎゅっと力んで生きてきたのか、
ということでした。
なんて力んで、
産もうとしていたんだろう。
なんて力んで、
生きようとしていたんだろう。
いのちが生まれるときに必要なのは
どうにかしようと独り善がりに力むことじゃなく、
全てを委ねて受け入れること、でした。
怖いと思う自分を受け入れて。
できないことがある自分も受け入れて。
恐れも痛みも何もかもぜんぶ
ふぅーと吐く呼吸の中に溶かしてみたら
抗うことで創り出していた壁がなくなって、
いっぱいに充ちた私の中が留めておけず
思わず溢れ出たのが赤ちゃんだった。
そんな感覚でした。
まっさらなパイプになりたいと思っていた今回のお産。
(自分の足で立つことと自己を消失させること)
だけど本当は、
自分の“思い通り”の枠を越えることは
私にとっては怖くてたまらないことで。
そんな私の、
“思い通り”なんて思考が及ばないようなところで
ただただゼロの体になってしまえば、
境界線のない全部の中にある私には
欠けているものがなく、
いっぱいに充ち溢れていることを知りました。
ゼロになることは
なくなることじゃなくて、
怖いことでもなくて、
全部の中にあるという
絶対的な安心感の中で、
”充たされている”という感覚を
心と体で感じきることでした。
きっと産まれたときはみんな全部と繋がっていて、
だから欠けているなんて感覚を持ち合わせてなくて。
だけど、思考の枠が創り出した境界線の中で
自分が欠けているような
充たされていないような感覚を覚えていって。
自分のままじゃ不足しているようで、
力んで頑張って抗って
そうやって少しずつ
充たされていることを忘れてしまうのかもしれない。
でも。
忘れないでいたいね。
忘れても、思い出していきたいね。
本当は足りないものなんてなにもなくて、
初めからぜんぶ、
充ちているのだということを。
小さくて弱くてなにもできなくて、
だけど、ぜんぶと繋がっていて
ぜんぶある
温かないのちが教えてくれたこと。
この子たちが大人になる中で
もしも忘れてしまいそうな日がきたら、
そのときは何度でも伝えたい。
ぜんぶの中にある私たちは、
力んで頑張って
自分以外の何かを欲しがる必要なんて
なにもないんだってことを。
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「始まりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされていけ
海の彼方には もう探さない
輝くもの いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから」
陣痛の始まりに長女が歌っていた
『いつも何度でも』という曲。
子どもたちはいつも全部を知っていて
私に大切なことを教えてくれる。